ミソジノハカバ

脳内のガラクタ置き場。フィクションとノンフィクションが入り混じったカオスです。ゲームの話が多いですが、おもしろいと思ったことはなんでも書き留めます。

私の脳みそは小さい。恐らくダチョウよりは大きいと思う。

今週のお題わたしがブログを書く理由

 

 当初は誰にも読まれなくても構わないなんて思っていたが、ありがたいことに、この自己満足のブログでも読んでくれる人がいる。こうなると少し欲がでてきてしまう。

 私のブログを始めた与太話を聞いていただきたく存じる。

  

 結論から言えば、このブログは私の脳内のガラクタ置き場であり、私が社会に立ち向かうための前哨基地である。

 

 私の脳みそは小さい。恐らくダチョウよりは大きいと思う。

 そのくせガラクタばかりを拾い集めてしまいこんでいくので、頭が膨らんで重い。

 やってることはダチョウと同レベルなわけだが、これでもこの年齢まで人間でいられるんだから、日本って平和である。

 

 重いのであれば、そのガラクタを捨ててしまえばいいのにと思うのだが、それが自分にとって意外と大切なものであったりする。『私』を保つために必要な情報がどのガラクタに多く含まれているかというのは『私』自身完全に把握できていない。

 だから、ガラクタを捨ててしまったが故に、頭の中で詰みあがった『私』という積み木が崩れて、社会に戻るために一つずつ積み木を積みなおさなくてはならない事故がたびたび起こる。この作業の喪失感は耐え難い。『私』が社会に上書きされて、純粋な『私』の部分が塗り替えられていく感覚。せっかく描いてきた絵を上から白く塗りつぶす感覚に似ている。

 

 この行為を受け入れ、前向きに行っていくことが大人になるということだと私は思っている。

 

 まわりの友人たちは、上手に新しい自分に更新されていき、大人になる。各々の事情を抱えながら、前向きに明日へ進んでいく。それはとても眩しくて、生命の輝きに満ちていると思った。

 私も年齢相応にその輝きを放たなくてはならないと躍起になっていた。

 いろいろなガラクタをほじくり返しては捨て、ほしくもないガラクタを拾って詰め込んでいった。

 言葉、洋服、髪型、理論で武装された自己、人当たりのよい笑顔、ポジティブな言動、どこぞの誰かの名言。変わっていく自分を、社会は両手を叩いて招き入れ、立場を与えてくれた。そこを居場所にしてよいと許可をいただいたわけだ。晴れて大人の仲間入りである。

 

 それでどうなったか。別になんてことなかった。楽しいわけでも何でもない。別に不幸ってわけじゃない。しかし何も満ちない。仕事のタスクばかりが積み上がり、これがただ続いていくのが人生であると感じたとき、心の彩度ががっくりと落ちた。

 『私』でなくてもいい『私』になったと思った瞬間、自分の立っている床がぐにゃりと渦を巻き、脳みそが巻き取られて行っているように感じた。

 このような些末な感傷に浸るなど、大人として修行が足りない。その辛さを抱えながら人は生きていく。だからこそ人は成長していける。前に進んでいけるのだ。

  

 なんだそりゃ! 冗談じゃない!

 

 なら大人にならなくても別にいいじゃないかと開き直るまで長い時間がかかった。

 そんなつまらない『私』になるのはまっぴらごめんだ。

 そう思うきっかけを与えてくれた媒体がブログだった。ふとしたきっかけで読み始めたブログは散文ブログで、本当に好き勝手な私見が書きなぐられていた。自分ルールとして、奇行に思えるようなこともやっていたし、記事の中にはそんなことを言っていいのか? と思うようなことまで書いてあった。

 しかし、その歪な個性の塊が存在していて、自分らしく人生を謳歌しているブログは、なんというか美しかった。

 

 羨ましい。と純粋に思った。

 

 私は文章が好きだった。小学生のころ、誰も読まない学級新聞を勝手に作成しては、掲示板に張り出し、ゲラゲラ笑っていた。将来作家にでもなってやるんだと息巻いていた。捨てていたガラクタの一つである。

 大人になったけれど、もう一度それを始めようじゃないかと、ガラクタを拾って頭に詰め直した。

 さすがに作家になんかはなれない。間違った文法と汚い自分の言葉で、皮肉たっぷりに言いたいようにものを話してやろうじゃないか。

 好き放題文章を書きなぐるくらい、私だってやってもいいだろう。

 そう思ってブログを始めた。

 

 私はいまブログを書きながら、落としてきたものを拾い集めて、脳みそに詰めなおしている。あんなこともあった。こんなこともあった。こんな風に感じた。

 夢中になってガラクタを拾い集めて並べながら、どんどん頭に詰め直している。

 それが楽しくて仕方がない。多分、『私』を再構築しているからだと思う。

 

 重ね重ね恐縮ではあるが、私の脳みそは小さい。恐らくダチョウよりは大きい。

 だから忘れないように書き記しておく必要がある。

 また私の脳みそが渦に巻き込まれたときに、捨ててはいけないものを再確認し、拾っていくためにこのブログは存在する。

 このブログは私の脳内のガラクタ置き場であり、私が社会に立ち向かうための前哨基地である。