ガキの時分から引っ越しが多い家庭だった。
桜が咲くころに何度も出会いと別れを繰り返すのが人間だが、私は人よりその回数がほんのちょっぴり多い環境にいたわけだ。
月日が流れれば、人は別れ行くものだし、それは悲しみを持って迎えることでもない。それはワンシーンだ。長い人生の、ほんのワンシーン。
頼まれなくても365日後には同じシーンがやってくる。
私はそれに気が付くための経験が、ほんの少し人より多かった。卒業式は時間の無駄だと思っていたし、卒業アルバムの余白に寄せ書きを書く文化も、あまり好きではなかった。それがすごく薄っぺらい行動に見えた。私は頼まれ人のものに書いても、自分のものは渡さなかった。なんだかそれをすると、縁の切れ目が見えるような気がしたのだ。
どうせ話すやつとは一生話すんだ。いまここを特別視しなくてもいいじゃないかというへそまがりなりの美学があった。
まわりからは少し冷めた子供に見えたのだろうなと思う。
人は劇的な別れをしなくとも、花が水をやらなくては枯れるように、繋がれた縁は隣にいても簡単に立ち消えるものだ。
逆にいえば水をやりさえすれば、花は死なずに、ずっと生き続けていくものである。
私は経験則的にそれをしっているから、今でも人との別れに涙したことはない。
死別はまだしたことがないが、どうなるのだろう。
まぁそれでも心はなんだかざわざわするわけで、この感覚を言語化することはできずにいる。
ぼんやりと思うに、これは「春」、「桜」を連想する音楽や映画で詰め込まれたイメージの封を切ってしまったことに起こる脳内でのイメージの氾濫じゃないか?
「出会い」、「別れ」、「感謝」、「遠くの街」、「新しい生活」、「決別」、「舞い落ちる桜」
そんな何かを捨てるイメージと変化のイメージ、積み重ねられた春のイメージだけが、事実もないのに脳みそをすごい速さで横切って行って、私の心に10円傷をつけていくのだ。
この先人たちが私に刻んでいった春のイメージはあまりに強烈で、自身の思い出の感傷を上回るバケモノになっている気がする。
この春の感傷は本当に私のものだっけ?なんて思うわけだ。
そんなこんな考えているうちに、桜はあっというまに葉桜になりかけている。
そんなくらいでちょうどいい。あんまり長すぎるとこの春のバケモノのメランコリックな瘴気にあてられてしまう。
何の話だっけ?
ああそうだ。仕事を始めた。
新しい仕事はとても忙しいが、とても楽しい。
世に仕事の人間関係で悩んでいる人がいたら、がんばるだけがんばって、それでもダメならさっさとやめればいいと思う。
なんだ意外と大したことないじゃん。と思うだろう。
私の職種がちょっと珍しくて、母数の少ない業界だからなのかもしれないけど・・・。
真面目にやってりゃそこで得たスキルはどこかで宝のように扱われることでしょう。
桜の季節すーぎたらー♪
フーンフフフフーン♪