辛気臭いけど私は生きティル!
辛気臭いのが嫌いな人は、読まないでくだせえ。
ぶっ倒れてから数日がたった。
個人の感想としては、世の中はかくもくだらないもので、社会は私の力などなんの影響ももたらさないのだという無力感。そして、私が俗世を嫌悪しているということが浮き彫りになった。
私は労働を拒否しているわけではなく、自分の中で労働を意味ある行動に昇華できているかを重視するらしい。意外なことに金ではないらしい。これが難しい。私は納得を第一とする性分のため、無駄な事は一切したくない。
もちろん社会には通例があり、マナーがあり、ふむべき無駄な足踏みがあるのは理解している。
そういうものの、たいがいはどうでいいことであるのが却って辛い。
せめて、私の時間を金に変換するのであれば、もっと無駄なく使って欲しい。
なにか、自己を、自身でなければ発揮できないなにかがあるのではないか。とくだらない夢想を並べるのだ。
でもそれが何か。私が何をなすべきか。そもそもそんなものあるのか。私は何がしたいのか。
私が全てを発揮できる分野とは何なのか。
それがわかれば、私の人生はより良くなるのかもしれない。そんなものありはしないのに。
いや、あったとしても、そこにある新しい苦難に身を捩るのかもしれない。
今は生活の為に身につけた技術で仕事をしているわけだが、自身の葛藤と折り合いをつけられないガキのような葛藤を今も続けている。当然、そんなことが許される段階は当に過ぎているのだ。折り返しなどはできない。
こんなモラトリアムはすぐに解決すべき問題で、折り合いをつけるべき問題なのだが、無理やりに納得しようにせよ、どうにも体が付いてこない。
過剰に高いプライドなのか。私がバカすぎるのか。世に適応できる気がしない。
ではどうすればよいというのだろう。というのが正直なところであり、世の人間がこれをあたりまえのようにこなしているというのに驚嘆する。
私は、解放された不自由だ。
私は、束縛された自由でいたいと思う。
限りない選択肢を選ぶ力は私には無い。
身の程を知っている。
かと言って、全てを自由に選択するほどの度量なんてない。
私には何をなし、なにができるかのか。
相対的評価がわからない。
自己評価もわからない。
社会と、自分が乖離している。
そんな人間はどう折り合いをつけるべきなのか、私は未だわからずにいる。
私は文章が好きで、物事を深く掘り下げる行為が好きだ。しかしそれはおおよそ社会には役に立たない。
これがお金になるのは多大な才と知識があるものであり、希望してなるものではない。私がそこに至るなど芥も思わない。
そういう宙に浮いた存在をずっと目指し続ける人を尊敬すると共に、嫉妬し、嫌悪する。
私はその境地に至らなかった。諦めて、常人を目指し、半常人となった。宙ぶらりんより確実な安定と幸せを築いた筈だと思う。
しかし、それは私の幸福ではなかったのでは無いかと思う。それはあまりに烏滸がましい言葉であるが、私はどうすれば幸福になるのか。到底みえるきがしない。
モヤがかかった山頂を目指す。とかではなく、あるのかないのかわからない蜃気楼をぼんやりと、破滅的に辿りながら砂漠を彷徨っている感覚に近い。
何だろう。
この渇きに似た、破滅願望のようなこの気持ちは。
蜃気楼は過去を写し、私はそこでなんの忌憚なく、生き生きと好き勝手に表現をするのだ。
蜃気楼に迷う私は夜が越せない。
そして、在りたかったしようも無い夢みては、終わりない後悔と失望を味わう。
それが今ある幸せを否定しているというのは重々承知していながら、自分を最低だと嫌悪する。
ああ、辛気臭い。こんな便所の落書きも一応残しておこう。
私が青いなと笑える日もくるかもしれない。