私は占いが好きだ。
あれはマジックみたいなもんで、自分をカテゴライズして安心してみたり、他者と共有することで楽しむためにある。話題の呼び水みたいなもんだ。
占いを信じているかと言われると微妙なところだ。少なくとも本気にしたり、気にしたりすることはまずない。でも占いというもの自体はあったほうが世の中面白いのでなくならないで欲しいとは思う。
ちなみに私は本当の占い師にあったことはない。
ちなみに本当か嘘かはどこで判断すりゃいいんだ?
私にはオーラなんか見えない。常に「凝」を怠っている状態である。
数字の3!!
私が子供の頃は、そういったオカルトめいたものが流行った。ノストラダムスのせいだと思う。彼は責任を取るべきよな。私も適当なことこのブログで予言しとこうかな。後に深読みされまくって顔写真が公表されまくるのかな。末代まで。それは嫌だな。
いまやると風説の流布とかで罪に問われそう。野暮な時代になったなぁダムスちゃんよぉ!
まぁとにもかくにも、私も血液型占い、動物占い、星座占い。色んな占いでキャッキャしていたわけである。
しかし、このささやかな楽しみ。
私は大学生の頃に無惨に奪われてしまった。
私の友人、生年月日、血液型が全く一緒だったのだ。
性格は真反対。
でも占い結果は一緒!
だからこそ互いに面白がってよくつるんでいたのだが、同時に不幸せになったり、幸せになったりはしたことがない。
でも占い結果は一緒!!
まず、世の占い師の方にはこれがどういう理屈なのか説明してほしい。
朝のニュースで「〇座はラッキー!」なんて見ると、友人の顔がチラつく。
ちょっと嬉しい!という気持ちが一瞬で引っ込むのだ。
私がラッキーということは彼もラッキー。これでは私のラッキーという特別感が損なわれてしまうじゃあないか。
きっと友人も同じことを思っていたに違いない。いや、彼はそんなことすら全て受け入れて楽しむ度量のある男だ。私の様に性根が腐っていなくて、ガムテープの裏側みたいにネチネチしていない。
わかるぅ?サスケくぅん?
生年月日、年齢、血液型が一緒でも、人間こうも違うもんなのだ。
血液型で人は決まらないとか、生まれた日で人は決まらないとか、そんなことわかってるんだけどさぁ。
なんか、こう、
ロマンがないだろ!
卑弥呼様が太古から積み上げてきた占いロマンに科学というど正論で水を刺す風潮ってのは良くない。なにより世の中つまらんくなるだろう!なんでも論破すりゃいいってもんじゃないんだよ!フィクションでも占いを楽しみたいんだ!わかるだろ?
もっとこう!超常的な感じの占いでガツンとくることねぇかなぁ。
水晶に未来が映るとかさぁ。
まぁもうこの年齢で未来に興味なんかないけどさ……(遠い目)
どうせならインパクトのある未来が望ましい。不幸じゃないやつで。
「明日、あなた宇宙人に攫われて、アンテナが頭につきます」とか劇的な展開にならないだろうか。
私はそのアンテナとどう折り合いをつけて生きていけばいいんだ!
ボウズにアンテナなんて!なんてピクミンブルーム!職務規定的に大丈夫かな!?
このアンテナはいったい何を受信しているんだ!
触ってみると意外と硬い!今の車では窮屈だ!
帽子はかぶれないな!
ああ!困った!
でも慣れてくると愛おしくもなる!
なんて思い悩みながら、ちょっとした恥ずかしさと、特別感と、優越感入り混じる複雑な気持ちを味わったりしたい。
そんくらいあってもよくないか。人生。
というわけで、占い師さん。
わたしはいつでもお待ちしています。