おっさんは驚くくらい涙腺が緩くなる。
今の感性で卒業式なんて経験した日には一か月は立ち上がれなくなる自信がある。
しかしながら、ゲームをたしなむ思春期。泣くことは「恥じ」という文化が確かに存在した。「男なら泣くな!」 なんて当たり前に聞こえる時代。
田舎で育った私はめったなことでは泣かなかった。
親に怒られても、痛くても、友達と喧嘩しても、飼ってた金魚が死んでも、
クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲
シン・エヴァンゲリオン劇場版:||
クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん
みてもかろうじて泣かなかった。
アカンこれ最近泣いた映画好きおっさんのゴースト流れ込んできてるわ。
ごめん。本当は号泣した。
(クールランニング、オーロラの彼方へ。映画だけどオススメ)
そんな中、トラウマのように刻まれているゲームがいくつかある。
もはやミームとして刻まれているレベル。
またやりたいけど、もうやりたくないような。そんな複雑なゲーム。
あえてそこを、おっさん語ろうと思うの。
あんまりにも有名なのは語ってもつまらない。私よりも文才がある人が詳細に語ってくれているでしょう。検索しなさい。
ちなみにドラッグオンドラグーン、ニーアシリーズ、リンダキューブはプレイ済み。 こんなブログ見る人は通過儀礼で通ったと思う。
通ってない人はまずこの辺からプレイいただきたい。
簡単に手に入るし、上質な鬱を味わえる。
大人向け、殿堂入り悪い意味で好評が目立つ奴、自分は未プレイは除くとする。
(serial experiments lainとかアニメはBDで買ったけど……ゲームはプレミアついてるし)
自分がプレイした主観で語らせていただく。
私自身文学部出身であり、活字に傾倒していた時期がある。
特にミステリが好きで、有栖川有栖先生、京極夏彦先生、綾辻行人先生、
アーサーコナンドイルのシャーロックシリーズも愛読していた。
シャーロッキアン来るなよ面倒くせえからな。
(本筋から離れるが好きなミステリはハサミ男、イヴリン嬢は7回殺される)
まぁようは映画も活字もそれなりに嗜み、それでも忘れられない泣いた(トラウマ)ゲームと思っていただければ幸いだ。
まず一番最初に上げるのは
ルーマニア♯203
※公式サイト不明なためこちら引用となります。
私の中では心の中に呪いの棘のように刺さり、それはおっさんになっても抜けないまま残っている。
続編、ニュールーマニア ポロリ青春プレイ済み。
このゲームこそ私にとって真の電脳遊戯といっていいのではないかと思う。
小説と映像作品のそのわずかな隙間を抜く没入感。物語に落ちた時の感覚を今でも思い出す。子供のころ初めて友達と夜の虫取りにいった感覚。ノスタルジックで、罪にも似た独特な感覚は心から消えない。
わからない人には糞ゲーだろう。でも刺さる人には抜けない呪い足り得る経験を確実に残していってくれる。
このゲーム、いわゆるノベルゲームなのだが、選択方式が二者択一ではない。
プレイヤーは神であり、ネジタイヘイという主人公の行動にきっかけを与えるしかできない。
これは他のノベルゲーとは違う。だいたいのノベルゲームは登場人物に心情を重ねるポジションが確立されている。ホームズであればワトソン。シュタインズ・ゲートであればオカリン。なんにせよ読者、プレイヤーの意思が誘導されるように物語が収束していて、プレイヤーはそこに介在する余地がある。
ルーマニアの私的トラウマポイントは
プレイヤーがそのゲームの神様として疑似的にゲームシナリオに加担させられるという工程が無意識に行われる。
ところにある。
ルーマニアにおいてプレイヤーができることは、ワンルームに住む、ごくつまらない一般大学生の行動をほんのわずかにずらすだけだ。
それは机の下に落ちているチラシを机の上にずらす。
意識をPCのメールにわずかに向けるなどその程度のことしかできない。
重要な決断はあくまでゲーム内のネジタイヘイが行うものであり、私たちはその決定に意を唱えることはできない。
このゲームは私たちは観測者であることをチュートリアルで徹底して自覚させ、主人公=プレイヤーという構図を絶対に許さない。
プレイヤーはネジタイヘイという主人公のワンルームを不在時に観察し、在宅時に意識的に室内のなにかにむけさせるという行為しかできないのだ。
ワンルームから外にでたネジタイヘイの行動は一切見ることができない。
私たちは203号室の神あり、それ以外の視点や思想は一切ゲームに加味されないのだ。
この独特なプレイ画面はぜひ見ていただきたい。
youtubeあたりなら動画も落ちているだろう。
ここでリンクを貼るような野暮はしない。この工程がルーマニアであるとしてほしい。
これが心に響く。
本当に些細な意識の動きが、ネジタイヘイの人生を大きく動かしていく。
それは現実の自分にも起こり得ることなのではないかと錯覚させる。
だからこそあのネジタイヘイの人生、シナリオは自分の一部なんだったんじゃないかと錯覚する瞬間がある。自分の人生もネジタイヘイのように大きな存在に動かされたんじゃないか。なんて思ってしまうのだ。
また特筆するべき部分として音楽の秀逸さ。
ゲーム内で、ネジタイヘイ(主人公)はセラニポージというアーティストを好んでおり、よく聞いている。
これはゲームと同時展開されいて、現実でもこのアーティストは存在する。
これはゲームのシナリオEDなど重要な各所でも流れる。
これが現実と空相の堺をゆらゆらと不確定につなぐのだ。
ここまでゲームと音楽が調和した瞬間を感じたことはない。
私はセラニポージの宇宙船はどこへ行ったが流れるたびに心に楔が撃ち込まれたようになり、動けなくなる。ぐっと息が詰まる感覚がある。
その時私はネジタイヘイ。その当時プレイしていた自分が心中が蘇ってきて、ぐっと鎖を引く。
その時、私はネジタイヘイであり、misonchoであり、×××××である。
そんな意識が一気に流れ込んで思考が一瞬止まるのだ。
こんなゲームミュージックはそうない。
『ROOMMANIA#203』(ルーマニア にいまるさん)は、2000年1月27日にセガから発売されたドリームキャスト用ゲーム。PlayStation 2で、2002年にリメイク版『ROOMMANIA#203』を、2003年に続編『ニュールーマニア ポロリ青春』を発売する。
プレイヤーは、アパートの一室に住み着く神様となって、アパートの住人ネジタイヘイを見守りつつ、平凡な彼の人生を波乱に富んだ物へと変化させる、人生介入型アドベンチャーゲーム。(wikiより引用)
文章にしては平凡、かといってあまり語っては無粋だ。
このゲームはおそらくリマスターはされない。
ドリームキャスト、PS2でしかプレイできない。
おっさんはこのゲームを体験できて幸運だったと思う。
これを読んだゲーマー。興味をもったゲーマー。
少しでもプレイしてみたいと思ったゲーマーは声を上げてほしい。
このゲームに触れてみてほしい。(難しいとは思うが)
ほんの些細な選択で、日常は劇的に変化すると感じさせたくれたこのゲーム。
自身が主人公ネジタイヘイであり、神である感覚を同時に感じた瞬間。
このゲームはおっさんに心に抜けない棘をさす。
思い出で脚色されたおっさんの夢のノベルゲー。
詩的ではあるが、本当にこのゲームこそが、人生であると私は思う。