大人はつくづく不自由である。
三十路になってから特にそう思うようになった。二十代はまだまだ社会からすれば若輩者であり、とんでもないミスをしてもなんとなく許されることが多かった。学生なんかは無敵である。
バイト先のレストランのコンロを手違いで壊してしまい、メイン商品が提供できなくなり、てんやわんやの状態になっても「学生バイトだし」の一言でお許しを得たこともある。
(これは店長の人間ができていたからかもしれない。俺だったらしゃがみこんで泣きながら学生バイトを非難していることだろう)
「若い」「青い」これは最高の免罪符であり、バリアーである。
信じられないことにそんな俺ももう三十路。気が付けば社会に出て結構な年月が過ぎている。若さ、青さという無敵のバリアーが徐々に剥がれはじめ、社会という名の地雷原をうまく爆死しないようソロリソロリと歩く練習をしている。
人間関係は社会の地雷。まずはここを踏まないようにせねばなるまい。
相手が返しやすい無難な話題を提起し、また提起された話題にそつがないように答える。これが社会人のスマートなコミュニケーションである。最近はこのテクニックを身に着け、そつなく会話をこなせるようになったわけだが、大きな問題がある。
つまらないのである。
天気の話題、芸能の話題、時事の話題。そんなものを積極的におしゃべりしてなんになるというのだろう。
「今日は晴れてよかったですね」
「そうですね。午後は夕立がふるみたいですよ」
「へぇー」
英語の教科書なのか?
ニューホライズンでしかこんな会話存在しないと思っていた俺が、今や週に何度かはこんな不毛な会話を繰り広げているのである。
これはいけない。本当はもっとくだらない話がしたいのだ。
もっとどうでもよくしょうもない話を面白くしたいわけなのだ。
本当ならばそれを友人とすればいいのだろうが、致命的な問題があり、
僕は友達が少ないのである。
というわけでこのブログを立ち上げるわけである。
言いたいことも言えないこんな世の中だからこそ
しょうもない話をブログでしようと思う。
これは誰に向けて書くわけでもない俺の独り言である。
頭の中に残り続けてもらっちゃあ困るしょうもないもやもやを吐き出す墓場がこのブログである。